9/30/2015

おかしな私の日常

■ 憑きもの

正直な所、私は戸惑っているのである・・・

なぜ、山にこんなに取り憑かれているのか? 

そう、”憑”という漢字が当てはまる山への傾倒ぶりで、今朝も青い空がベッドから見えた途端に後悔している・・・なぜ今日山を歩いていないのかしら・・・と。

いつの間にか、山で過ごすことが私自身の幸福の目安になっている・・・時には、13時間の山の後に、早起きして、3時間近くも運転して山に行くのである・・・

ちょっとおかしいでしょう・・・もう一人の自分が言う。

今週くらい休みなさい。秋の衣替えは?

水やりを忘れて放置したベランダの植物の片づけは?

冷蔵庫の掃除は?献立の計画は?そうそう、血液採取して検査に送るのは?

ヨガの友達に電話をしたら?

この散らかった部屋(それもほとんどが山道具・・・デスクの上には何枚もの地図が散乱・・・)なんとかしなさいよ。

そう、心が言う。それに答える。

ああ、すっきり~これで気持ち良く山に行けるわね~

なんて考えているのだ。

用事を片づけ、気楽になると、結局は、また菊池敏之さんの本をフムフムと読んで、女性だけのアンナプルナの挑戦記にため息をつき、まだ見ぬ山の姿を思って、地図に尾根と水線を入れる。

そいでもって、ふと思いついて、また、ベアリング図なんかを書いてしまう・・・。

ひと段落するまでは、食事もしないで。

「肩がこる前に休みましょう」なんて、どの口が言っているのかしら?という訳だ。(私はヨガの先生をしている)

ベアリングがひと段落すると、全体像が見たくなり、地図をつなげる・・・

見逃した核心はどこか?濃すぎて歩けない藪はないか?一体エスケープはどこに取れるのか?
この屈曲した沢は、さぞかし、滝が多いだろう・・・、下りるのがないとすれば、どこが安全圏に最も近いのか?核心は水なのか?

そうこうしているうちに、やっぱり、やっぱり2万5千の地図は必携だと思える。ラージスケールで把握しておく必要を感じるのだ。

それで地図を買う”ついでに”、スーパーでお買い物してくるのだ。うーん、重症。

■ 山とは?

私はただ知りたいのだ。

山って何なの?

もちろん、私が言っている山は、ただ「北岳は日本第二の高峰です」とか、「小川山は花崗岩の岩です」とか、そういうことではない。

「あの人は山のなんたるかを分かっていない」

と言うときの、”山”だ。

八甲田山の”死の彷徨”は、山が分かっていないことで起きた大量遭難だった。あまり知られていないが、この山行には、別部隊がいた。その部隊は同じような山行をして、一人の落伍者も出さず、帰ってきている。

両者の違いは、抽象的な言い方だが、

 山を分かっていたかどうか?

だ。中身は同じ山なのに、これほどの開きが出るのが、山なのだ。

もっともよく山を分かっている人は誰なのだろうか・・・?マタギなのか?猟師なのか?

山を生活拠点にするだけでは、山のことを何にも知りえない、ということは、山小屋でしばらくだが、バイトしてみて分かった。

私が一番びっくりしたのは、山に働いて、誰も外を見ないことだった。毎朝、3時半に外に出て、外の空気を吸っているのは私だけだった。雨の日も、風の日も、外に出なくては、登山者に的確なアドバイスはできない、と思ったのに、ネットで配信される天気予報を張り出してお終い。

日帰りの山を重ねても、山の一面しか知りえないことも分かった。温かいお天道様の下に、お弁当を広げて、「山っていいね♪」っていうのは、軽薄短小に感じる。

そんなシチュエーションで良くないハズがないでしょう。同じ場所で雨に降られ、風に叩かれ、闇夜が来たら、「山っていいね」どころか、山なんてコリゴリと思うはずだ。

昨日はスーパームーンだった。子供の頃、月に慰められて生きていた。我が家はとても貧しく、それを解消する手段も子供だから何もなく、ただひたすら耐える日々。それでも、月は美しい。

夏の暑い日に、夜中にベランダから外へ出る。そして、飽くまで、月を眺める。地球の裏側でも同じ月だと言うことを考える。清少納言の時代も同じ月だと言うことを考える。

自然の普遍性を思うと、人間的問題は大したことではないように思えることが多い。月明かりは優しく、不変だ。

樹木に心を寄せることで、人は生きることができる。毎日の登校で、挨拶をする木があった。イジメや理不尽が積み重なると、その木の下へ行く。彼は何が起こったか?見て知っているから、平気だと思う。

九州の台風はすごい。閉じて鍵を掛けたアルミサッシから雨が室内ににじみ出るような雨だ。その中、弟とベランダで滝行のように、雨に打たれる。何もかもずぶぬれで、ひどい格好だが、何かが洗い流されるように清々しい。遠くで稲妻の蒼いラインが見える。美しい。恐ろしいような気もするが、それでも目が離せない。ギュッと彼の手を握る。その手は握り返される。

でも、少年自然の家なんかのキャンプサイトは大キライだった。ニセモノ、と子供の私は切り捨てていたのだ。

今では人間が丸くなり、人の弱さを許せるようになり、ニセモノにも寛容になった。

だからと言って、ニセモノが分からないわけではない。