9/05/2015

私の山のふりかえり

今日は、自分の山の歴史を振り返る。

■ 初期: 厳冬期の八ヶ岳

始まりは5年前の9月だった。私たち夫婦は、夫の転勤で山梨へ来た。

試しに参加した、ストローハットという、近所の山道具屋がやっていた登山ツアーに参加したのがきっかけだった。場所は八ヶ岳の西岳。標高差1000、往復7時間の山だ。

我が家は甲府に来た頃は車が一台しかなかったので、私は道路も分からず、登山はまったくガイドブックの一冊も持ったことがなく、したがって、どこへ向かっているのか?も、西岳が八ヶ岳の一部であるということも知らずに参加した。

10月、黄金色に輝くカラマツの紅葉が美しかった。

スタートしたのが10月だったので、冬山はお休み。ゼロシーズン目だ。夏山一シーズン目の翌年、ゴールデンウィークに、夫と八ヶ岳に出かけた。ニュウだ。北八つと本沢温泉からの硫黄岳を歩いた。

その後、夫と茅ヶ岳や瑞牆山に行き、夏の低山に辟易。低山趣味はないと分かった。かといって、混雑したアルプスは行く気になれなかったため、夏の山はお休み。11月は西穂独評。雪を抱いた姿は神々しく美しかった。

その後、冬山1シーズン目、本格的に冬山にデビューした。北八ヶ岳に通い、小屋泊に慣れると、南八つの権現岳に通った。権現はなかなか登れず、前三つ止まりで、最初のうちはピッケルも持っていなかった。だから、三ツ頭に到達した時は感動した。権現は標高差1500の山。

冬山2シーズン目、これ以上は、6本爪アイゼンとストックで行ける場所は行き尽くしてしまい、どうしても本格的なアイゼンとピッケルが必要になる山に行きたい、ということになった。

この時点で冬の天狗岳には3回すでに登っていた。

終にピッケルを購入。使用法を知らない道具はタダの重しだ。誰かにピッケルの使用法を学ばなくてはならない。そこでガイドの三上さんを紹介されたわけだった。

この出会いが本格的な岳人との最初の出会いだ。

三上ガイドと冬天狗へ行ったが、その時点で私達夫婦にとっては、4回目だった。ピッケルの使用法と緊急時の雪洞シェルター、ホワイトアウト時のナビゲーションを教わった。

その後、三上ガイドが「どこに行きたいの?」と聞くので、「川俣尾根」と答えた。

川俣尾根、と聞いた三上ガイドは驚愕した。が、作ってくれた山行が「ツルネ東稜~権現~川俣尾根」だ。この山行は、私の労働と交換で成立した。ガイド料は払っていない。素晴らしい山行だった。

当時、私は古い岳人の特集記事を基に、自分たちの登山計画を立てていた。それはこうだ。まずGWの八ヶ岳で足慣らしをする。次に夏の雪渓がある山に行く。冬の低山。八ヶ岳の天狗岳。北横岳や縞枯山、硫黄岳。美ヶ原や霧ヶ峰。そこから、ステップアップして、赤岳。権現。冬の鳳凰三山。さらには谷川岳、白毛門。八ヶ岳に近いのが山梨に住むことの強みだと思った。

その仕上げとしては、八ヶ岳の冬季の全山縦走を考えていた。この計画は、残念なことに、ここ数年、講習会や、山岳会などの他人を巻き込む活動を優先したため、棚上げになっている。

さて、八ヶ岳の全山縦走が目標だと三上ガイドに話すと、それは「アルパイン志向」と呼ぶのだと教えてくれた。したがって、私たち夫婦、特に私は、登山の初心者のころからアルパイン志向だったことになる。

冬山3シーズン目の冬、冬山は終にお正月の鳳凰三山(薬師小屋泊)まで漕ぎつけた。7時間のロングルートだ。ノートレースの尾根を歩き、自分たちだけのステップを刻む、美しい山だった。

冬天狗に一緒に行った人たちは、5、6万円程度のガイド料を払って、赤岳横岳の縦走をしていたが、私たちは、技術度を上げ、その保険にガイドを雇うのではなく、体力がいるルートをこなす、ということを先に選んだ。当時から、人で混雑する赤岳は好きになれなかった。

その年は、沢登りのツアーに参加し、奥多摩の海沢に行った。また、冬の氷雪技術を上げ、ガイドレス登山を続けるための技術的保険として、アイスクライミングを取り入れることとして、体験クライミングに参加した。

ガイドレスで行く”、それが私たちの価値観だった。しかし、三上ガイドはそのための心強い応援者だった。今でも感謝しているし、本の貸し借りやギアの貸し借りを通じて交友は細いが続いている。

ただ厳冬期の鳳凰三山に自力登山ができる以上、これ以上の山に行くとなると、単独や個人山行では危険が大きすぎる。技術が必要だ。

■ 脱・一般道: 明神岳主稜への長い道

そのため、登山学校を模索した。山岳会は登山学校ではないので、最初から考慮になく、私はあくまでも、講習、教わることを目的にしていた。

自分で行く山しか考えていなかったからだ。

当初は岩崎元朗さんが主宰する、無名山塾に入会予定だった。厳冬期のタカマタギに行き、八ヶ岳と全く違う雪に驚いた。講師の方の山の技術、見る目、経験に感服した。今でもこの出会いを信じ、この時の講師の方に山を教わることができれば、どれだけよかっただろうと思っている。今となっては叶わぬ夢になってしまった。

当時、たまたま見かけた、長野県山岳総合センターのリーダー講習に応募したら、合格してしまった。過去3年間にものすごい勢いで冬山に行っていたからだろう。

この講習は無名山塾を私塾とすれば、公立学校ということができる。費用が安く、講習生は全国から募集で、約30人、女性は5人(だったが、すぐに3人に減ってしまった)。1年間の講習で、スタートは4月。登山4年目の夏だ。

リーダー講習は、知らなかったが、イマドキの山岳会がリーダー育成出来なくなっている事情を補足する講習だった。センターには様々な講習があり、”リーダー”というのは、単発で募集される”一般”との対比くらいの認識でいた。1年の講習だからだろう・・・と。実際は リーダーとはリードする人のことで、トップを登る気がない人はお呼びではない。

当時は山の世界については無知で何も知らない。しかし、講師たちが目指していたのは、”前穂北尾根が登れるリーダークラスの育成”だった。卒業後の講習生は、講師が所属する山岳会に吸収されていくのだった。

さて何をやったのか?

初日は、エイトノット、マスト結び、半マストからスタートし、実地は雪上訓練。扇沢の雪渓を17kg~20kgを担いで上がり、テント泊し、滑落停止訓練し、初めての懸垂下降は、雪上。初めての確保も雪上だった。その次はツエルト泊。

危急時対策と題する講習は、七倉沢で、ハーケンで中間支点を取りながらのフィックスロープ作成、徒渉でのフィックスロープの作成、岩場での懸垂下降、救助、搬送、など。この時も沢泊。当時は、クライミングシステムをまったく知らず、知っていること前提で講習は進むため、面食らった。

ただ”山をするとはどんなことか?”については、良く分かっている方のようだった。

クラスメートの誰も、『日本登山大系』を知らないことに驚いた。

夏山は、講習がないので、講習会費用をねん出するため、小屋バイトに行き、それで4年目は慌ただしく、過ぎて行った。帰りに、ついでで、後立を縦走。4泊5日。

講習会の場合、仲間関係は一時的なものだ。一方、山に必要なのは、息の長い関係だった。

12月、仲間を求め、山岳会を模索した。ガイドをしている人を通じ、岳連に尋ね、山梨県下の活動があると思われる、6つの会を検討した。そのうち1つは紹介が必要でやめた。5件にメールを出し、返答が来たのは3つだけだった。それらの例会にもそれぞれ参加した。

このころ、岩場で偶然出会った、老練なクライマーが師匠となってくれ、様々な助言を安心してもらうことができるようになった。このことについては、心から感謝している。

冬山は、自分たちで行った鳳凰三山から、師匠とともに歩いた、甲斐駒黒戸尾根、阿弥陀中央稜が最高の難度の山となった。

が、これは自分の山とするには、復習登山が必要だった。登山5年目の冬に突入した。3月に山岳会に入会したが、このシーズンは師匠としか歩いていない。アイスで広河原沢左俣へ行った。素晴らしく美しかった。

山岳会には3月に入会した。このことについては後悔している。私は入会の勧誘を受けて、入会したのだが、そうすべきではなかった。

山岳会に入会するときは、その山岳会に、教えたいと心から思っている人がいるときだけにしなくてはならない。

それは指導者という大げさなことではなくても、友達でもよく、またパートナーでもよい。一緒に行く相手が、そもそも最低一人、存在する会を選ばなくては意味がない。山岳会は、はないちもんめと同じことなのだ。それには山が合う必要がある。

私の山は地味だ。派手な山は、混雑しているので最初から敬遠しているのだから。ただ誰もが行く山は、一つの目安を得るためには知ってはおく必要があると思っている。文三郎尾根と言われて分からなければ、冬山のリスクの話ができない。

3月、ツルネ東稜は、「川俣尾根から権現登頂」という山として結実した。しかし、この山行は、肝心のプレゼントした相手(山岳会の人たち)には価値や意味を理解されなかった、という残念な山行として終わった。この山行には、私はこういう山に価値を見出します、という山の価値観を伝える意味があった。川俣尾根に登山道はない。危険はないがラッセルとルートファインディングが必要な山だからだ。

私はこの時、天狗尾根に行きたい人にすでになっていて、それがかなわないなら、単独がはばかられる、ツルネ東稜~旭岳経由での権現登頂を今度は自分で歩きたいと思っていた。これはザイルを出す山だから、単独では歩けないからだ。しかし、会のレベルに合わせるという目的で、川俣尾根からの登頂になったのだが、それでも12時間の山は大きすぎると苦情を受けた。

この時点での天狗尾根は、努力目標を設定するという目的で行くべき山だった。登山で山を大きくしていく・・・10から12の山へステップアップするには、15の山を経験しないといけない。そうすると、自分の行ける山は10から12へ大きくなる。例えば、私は前穂北尾根を経験したが、そのおかげで、おそらく北穂東稜には自分がリードして行くことができる。

登山は夏山4シーズン目に突入した。このころ、クライミングシステムの理解については、必死で独学し、マスターした。

役立ったのは、様々な教科書と言われる本と人工壁でのリードクライミングだった。まず目指したのは、ビレイ技術の習得だった。技術書や『生と死の分岐点』はむさぼるように読んだ。というか、読んでも読んでも、行間がある気がしたのだ。ビレイはスポーツクライミングで習得した。外岩で墜落した人を停止した経験がすでにある。

結局、文部省の登山研究所が出している確保理論を読むまでは、クライミングシステムを理解したと思えず、自信がつかなかった。リーダー講習から1年、クライミングシステムを理解するのに、結局、丸一年かかったことになる。

登山4回目の夏は、ひと夏をクラミングだけに捧げた。必要な投資、経費と思っていた。週に2回夜人工壁でクライミングし、土日は岩という生活だった。

行きたい山には行けず、講習会とクライミング、会山行で、義務やノルマを消化する日々だった。この年はフラストレーションを貯めた年だった。

秋に山岳会の先輩たちが北穂池・前穂北尾根に連れて行ってくれ、これがガス抜きとなった。

私は登山3年目までは冬山以外はほぼ知らず、4年目は講習だったので、基本的に夏山の経験はあまりない。

観光地化し、雑踏化した、夏の一般道を歩く経験が欲しいとは、初心者の当時から思っていなかった。皆がいくところには興味がそそられないのだ。

したがって、夏山といえば、最初からバリエーションしか存在しえなくなるわけだが、それは目指したわけではなく、結果的にそうならざるを得ない、という話だ。

夏山のバリエーションと言えば、本チャンと言われるアルパインルート、もしくは沢登りだ。

アルパインを志す場合、フリークライミングが加わる。フリーはアルパインの基礎を作るもの、と今日ではされてるからだ。

ただフリークライミングの人たちは山をしない人が多い。そこはクライミングを主と据えるか、山を主と据えるか、という問題だ。

クラミングだけをしたい人は、テントを担いでいく、重い荷を担いで、自分の足で山に登る活動には魅力を見出していない。車で乗り付けられるところで、クライミングだけをしたいのだ。ボルダリングも同じだ。したがって、根本的な思想の違いがあり、なかなか相いれない。

しかし、今の時代はフリークライミングなしに夏山の本チャンは存在しない。山好きな人には、クライミングを否定する人が多い。それも分かる。私自身がそうだったからだ。

しかし、アルパインの基礎がフリークライミングであると理解してからは、相いれなくても仕方がないとあきらめ、取り組むようになった。

フリーは、5級ならどの課題でも登れるようになる、つまり5級マスター、デシマルで言うと、11までは頑張りたいと思っている。今のグレードは、外岩リード、5.8.限界グレード5.10a。

夏山はアルパインか沢登りということで、アルパインのためには、都合2年を”自力で行く山”のために、先行投資している。登山5年目にしてやっと、明神岳主稜に行くことができるようになった。ずいぶん、遠回りした。2年分の努力が結実した、ということになる。

夏山のバリエーションルートについては、前穂北尾根以上の困難度は求めていない。私自身の行ける山で行きたい山と言う意味で、落としどころはそのレベルだと実感している。

■ 今後

一方、夏山の充実については、最初から沢を志向している。なぜか?それは、山において尾根は山の一部でしかないからだ。山を全部知ろうと思えば、谷もしらなくては、山の表情の半分を知ったことにしかならない。

沢登りには、山登りのすべてが凝縮されている。尾根だけでなく谷も、山の自然の造形の一部なのだ。尾根に景色がある以上に、沢には生命の息吹がある。すべての生き物は、水がないと生きていけないのだから。

沢登りはあらゆる登山形態の中でも、冬山同様に、危険が大きく、冬山以上に入門者に単独行が開かれていない分野だ。今年は沢登りを頑張りたいと願い、それは実現しつつあり、そのことに関しては感謝の気持ちしか沸き起こらない。

沢に関しては、師匠が去年、モロクボ沢など2か所を歩いてくれた。自力で歩く沢を志向し、ズミ沢、伝丈沢での沢泊、峠沢~青笹尾根などとして結実。初級の歩くだけで登攀要素がない沢については、すでに”自分の力で歩く沢”は実現した。

しかし登山では、10の山に行くには、12の山、15の山に行く経験を積まなくてはならない。

登山をなぜ好きなのか?

登山には、真の自由があるからだ。真の自由とは何か?

自分の実力をよく知り、自分が制御できる範囲でリスクを取り、自分の好きなように歩くことだ。

その人の山のサイズが、その人の人間としての実力そのまま、なのである。登山では、人間の実力がとても分かりやすい。

自分自身の努力で、自分の行動範囲、自由を広げていく、のが、登山という活動ではないだろうか?そのために、応援者として、講習会があり、仲間がおり、指導者が存在する。

自分の自由度が拡大するには、自然に関する深い洞察力が必要となる。結果、山の自由を拡大することと、山について深く知るといういうことは、イコール関係となる。

そこが、山の経験値ということだ。自然に対する知識が深く、理解が大きいほど、山での自由度と安全性は増す。

そういう意味では、私の沢での自由度は非常に小さい。知識も技術も限定されている。自力で行ける沢は、伝丈沢程度だ。

一方、尾根での自由度は、もうすでに自分が願った通りに拡大した。これ以上は求めていない。

冬に目を転じると、雪稜では、これ以上、自由が拡大すること、つまり自力で行ける山が大きくなることについては、命の危険がある。

厳冬期の八ヶ岳でソロテント泊する人が、それ以上大きい山、を求めれば、かならずそこには凍傷や死の危険がある。したがって、雪稜で自由を拡大することはほぼ不可能だ。

一方、冬の垂直志向である、アイスは、ゲレンデとルートをこなしていく、その繰り返しがあるだけだ。2年ほど峰の松目沢と思い続けたが、機会が与えられず、去年、これはジョウゴ沢として結実した。ただし、ノーザイルだ。

・・・というわけで、総合すると、わたしにとっても、多くの岳人が到達したのと同じ結論が待っていた。

山における、自由拡大のフィールドは、おそらく沢にある、ということだ。

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道のあるところだけを登るのが山登りではない。がけにあおうが、密林に出くわそうが、どんなところが出てこようとも、そこを自由自在に歩けてこそ、初めて一人前の山登りということができるのである。

そのためには基礎訓練をしっかりやって、あらゆる技術を身につけておく必要がある。だから我々の学生時代には、ひとつの特技だけを身に着けたスペシャリストになることを避けて、オールラウンドの訓練をやるようにやかましくいったものだ。たとえば岩登り専門の人は、岩ばかりを求めて山を忘れてしまう。

一口に山と言っても、道標があり、登山道がちゃんとついている山もあれば、また炭焼き、樵の通る道を利用できるだけ利用し、最後は道なき道をかき分けて登らなければならない山もたくさんある。

山に登ってもすっきり登れることもあるし、つまずくときもある。いくら前もって資料をたんねんに集めたからといっても、それで百発百中とはいかないところに、いつまでたってもやめられない学問や登山の面白みがある。長年の経験がものをいうということもあるが、これはどこまでも理屈ではないと私は思っている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今西錦司

≪まとめ≫

・雪稜
キッカケ: 西岳・西穂独評
スタート: 厳冬期八ヶ岳
 ↓ 
  ・・・ツルネ東稜を経て
 ↓
お正月鳳凰三山
 ↓ 
  ・・・厳冬期甲斐駒黒戸尾根、を経て
 ↓
現在の実力: 厳冬期八ヶ岳単独テント泊




・アルパイン
キッカケ: 北岳単独
スタート: 後立山4泊5日単独テント泊縦走 
 ↓
  ・・・ゲレンデ、小川山通い、および前穂北尾根を経て
 ↓
現在の実力: 明神岳主稜


・沢
・・・講習会(東沢釜の沢)を経て
 ↓
現在の実力: 伝丈沢(沢泊、焚火)、ズミ沢(1級程度の登攀)

・アイス
 ・・・講習会(岩根アイスツリー)
 ↓
 ・・・広河原沢左俣を経て
 ↓
現在の実力: 南沢小滝(ゲレンデ)、ジョウゴ沢(ルート ノーザイル突破)